昭和41年01月28日 朝の御理解



 田主丸の小野先生が毎朝、ああして、参って見えるんですけれども、まあゆっくりここで、お話しを頂いたり、まあお話を自分でもして行かれたんですけれども、先生私しは、もうまっぽうその人間、おっちょこちょいに出来けていると言う訳。もう本当にも少し、何か落ち着いたでんとした、その自分になろうと思うんですけれども、もうつい結局本当のものが出てくる。
 いわゆる性根の中にあります、いわゆるおっちょこちょいが出てから、困りますち言うて、その話しておられました。例えば自動車で、こうこちらへ参っておりますと、途中でそのよう歩いて急ぎよんなさる人達がある。それで止めてからお急ぎなら乗られませんか。私しは椛目まで行きますからて言うて、乗せて来てあげる。そうですか、そらあ、おかげで助かりましたと言うて、その喜んで乗って貰うと、その日一日が何か良い事をしたと言う様な気持ちでしょうか。
 本当気分がいいてと言う訳なんです。所がたまには、あの何かあたしこちらに野心でもあるんじゃないかと思うて、じろっとこう胡散臭そうに見といてですね、そしてそのいいえとも何とも言わずに、まあつらっとその行く人がある。もうそういう時に何時もその自分のまあおっちょこちょい振りと言うものを、その感じると言う訳けなんですね。その時は結局まあ不愉快なんです。
 私しあのお話しした事ですけれども。いわゆる自分の頂いておるそのまあおっちょこちょいでもですたいね、それがその本当の本当のものじゃない。まあ中途半端なん。本当のおっちょこちょいになったら神様に通うものが生まれて来る。これは私しが昔よく言った、ふうたらぬくいと言う言葉をもって言いましたけどあたしなんかが、もう本当にふうたらぬくいふうたらぬくいな自分ながらふうたらぬくいとこう思うておる。
 こんな事じゃ自分の成功もでけまい、金儲けも出来まいと思よった。言わば私しのそれを、本当にここを、小野先生じゃないけれども、でんとこうますこし、がっちりとそこをやりとげんといけんと、こう思いよりましたけれども、いよいよ神様に打ち向こうて参りましたら、その私しの、ふうたらぬくさが今日の、私しがおかげを頂いておる元になっておる。まあ、言うならばいやと言い切らん。
 頼まれればその泣く泣くでもいやと言い切らんと言うその、ふうたらぬくさがですね。やっぱり今日にもそれが続いておる。私し本当にそれ思うんです。もうやっぱり三つ子の魂百迄と申しますけれども、もう子供の時からそういう性根があるんです。今頃の子供にはあんな事言ったって、そげなふうたらぬくい子もおりますまいけれども、隣に私しの叔父と田中の叔父がおりまして、もう何時も私しを、その人が居るともう、是はあんた、隣の甥ですばってん、もう私しが息子んごとして、可愛がっとる。
 もう私しが言う事ならどげんこつでん聞くち言うて話よるもんですもん。そしてからその、あのそこにその俺がよかちゅうまで、そこに寝れちゅう訳けですよ。そしたらちゃんとこう、手を胸の上にあげてから、ちゃんと、よかちゅうまで、その言わばその婆が腹かきよりましたもん。その、増太郎って言よりましたもん。増すたんばっかリゃ、こげなこまかつば、そげん何時までん、そんちゃんなんしてから、みてんなさい可愛そうにち言うてから、そのもう早よう起きれ、起きれてちてから、言いよった様な事を、覚えておりますけれども。
 それでもやっぱ、叔父が、起きれて言わな、起きらんのです。もう私の言う事なら、もうどげなこつでん聞くちゅうてから。(笑)ほんに、自分ながらふうたらぬくい、もうその一つの表れなんですね。子供ん時から、やっぱそう言うふうたらぬくさがあったんですよ。もう本当に自分ながら情けないと思うんです。その事を、小野先生じゃないですけれども、自分のおっちょこちょい振りと言うもの。
 それこそ、あの、情けないと思う事があるけれどもです、だけどそれを情けないと思わずに、それを徹し抜いた時に、私しはおかげ頂けれると、私しはその改まると、言う様な事は自分の、そうした神様頂いておる長所だと思っておる、欠点だと思っておる、その事をです。私しは本当にいよいよ、本当なものにして行く事だとこう思うです。本当のふうたらぬくさと言うんですからね。もう徹して行く事です。
 そこにまあ言うならば、信心辛抱にも通じるでしょう。又は馬鹿と阿呆で道を開けと仰るそれにも通じるでしょう。とに角矢張りその、又桂先生が神様の事であったら、前には進んでも後には引かんと言うあの、不退転の心にすらそれが継ながるもんだと、私くしは思うです。それを徹して行くと言う事なんです。例えてまあ、小野先生の事で申しなすならばです、例え、胡散臭そうにしておろうがです。
 あのこちらが親切を向うから、パンと跳ね返されてもです、それでもその私しはそうでも、又失敗したと言った事を、思わずにですそれがやっぱり、そのそうしなければ居られないと言う様なものに、徹しられた時に、そのおっちょこちょいさと言うものが、私しは一つのまあ、風格のあるおっちょこちょいになって来るんじゃないかと、こう思うんですね。神様も最近は、その言葉も使いません。
 現在でも矢張りふうたらぬくさと言うものに、まあ徹しておる訳で御座いますけれども、現在はもうそれは、ふうたらぬくいと言う言葉では、あてはまらない位いにです、私しの心の中で成長しておるものを感じます。そして自分なほんにどこまで素直じゃろかと言った様な(笑)ものを、それを感じる事が御座います。人から見られてもそこが何か本当、先生ばっかりは、ふうたらぬくい人じゃあると言う風には、段々見られんで、行きよる様なものを感じるのです。
 ですからあのう私し共が欠点だと思っておる事にですね、それやっぱ徹し抜かなければ出来ません。馬鹿と阿呆に。 ここまでは馬鹿と阿呆になれるけれども、これから先は馬鹿と阿呆になれない、やっぱりその限度があると言った様なものじゃなくてです、もう限度のないもの限りのないものに、私しは出来ません、出来ませんけれどもそうある、よく私しは精進する事だと思う、信心とは。
 昨日も私し、昨夜の御祈念の時にまあお話しした事で御座いますけれども、あのう私し御夢を頂いた、その御夢の事から感じたんですがねえ、例えて言うならまあ人からその悪口を言われるその悪口をです、それを本当にまあぽつんぽつんの悪口ならです、それを一つ一つ有難く受けていけれる自信がある。そういう時には自分の心と言うものは、その悪口が鉄砲玉であってもその鉄砲玉はひとつも当たっていない事になる。
 それで自分の心を傷付けたり、殺されたりする事は、ないと言う事なんですよね。自分の心の中に、心の中に傷付けられると言う様なものは、なかったら、自分の心が真黒になると言って死んでしまわなかったら。それ例え鉄砲玉であっても、それによって自分、その、やられると言う事はないのですけれどもですね、それが少し矢継ぎ早に成って来る、ぱあっとその、火炎放射機か何かの様に、機関銃か何かの様に、もう続けたくりに悪口を言われると致しますとですね。
 くうっとしてしまう。と言う様なのでは、本当なものじゃない。それは本当に、正直者が馬鹿を見ると言った様なところへ追いこまれてしまわなければならんと、言った様な事だったんです。けれども、そこのところがですね、おんなじわけなのですから、それでも矢張り、あのそれを続けたくりに言われる悪口でもです、それをあの受け答えていけれると言うか、そこんところに。
 私しはもう限りのないいわゆる、馬鹿と阿呆なら、馬鹿と阿呆と言うものに徹しようと言う気持ちがなからなければ出来ません。ぽつん・ぽつんの悪口なら、有り難く消火して行くけども、もう、大きながばっとした悪口だったら、もうそれを受け切らないと言った様な事ではない。信心とは、そう云う様な事にですね、徹して行く事だと、私くし今朝から、ただ、いい加減な事でおかげは受けまい。本当なものでおかげを受けようと、そんな気が致しますんですね。
 神様を誤魔化しながら、おかげを受けると言った様なことはすまい。例えば小なりと言えども、本当なものによっておかげを受け止めて行こうと、だからその、本当なものと言うことがです、自分がうんなら、馬鹿と阿呆なら、馬鹿と阿呆になり切らせて頂くと言うことがです、私しは、そこに一つ焦点を置いた、うんなら自分がおっちょこちょいであると言うことを、その感じながらです、もう、馬鹿らしゅうなると言うのではなくてです。もうそれに徹して。
 私しは、行くと言う事が、それが私しは、自分の本当のものだと、こう自分の頂いておる、馬鹿と阿呆なら、馬鹿と阿呆と言うものに対してです、それを例えば、そのどんなに一ぺんに馬鹿と阿呆にされてもです、そこを抜けてその、通り抜けられると言うか、もう受け抜いて行けれると言うか、そう言う様な、私は精進のそういう心で、そう云う事で、なら失敗はしてならんと言う様な心で、一つおかげを受け止めて行きたい。又失敗をした。その失敗をした。
 そのそう言う様な、失敗の心でおかげを受け止めあの下さるのは、これは本当の事ではない。 自分と言うものを誤魔化し、ま誤魔化したおかげの受け方になるんじゃないかと、まあそう言う様な意味でですね、まあ何と申しますかね、段々一つの物がこう成長致しますとですね、名前が変わって来るですねそんな例は、いくらもありますでしょうね。例えばあの蛙の、こう子供の時には、おたまじゃくしと言うんでしょうが段々、手が出たり、足が出たりして参りましてから。
 矢張り蛙の姿になってからしか、蛙と言わない様にですね、私し共も矢張りそういう所に徹ていしていこう、蛙は、蛙なんだと、その蛙に徹底して行く事だと。私しの、自分のそういうその、欠点だと思っておる事をです。それを本当にもう、こげな事ではと思う様なその事をです、徹ていして参ります時に、段々、名前が変って行く様な、気が致しますんですね。そこん所を私し教祖の神様は、御神格をもって、そのはっきり自分の変わられた姿を、残しておられるとこう思います。
 下葉の氏子と、神様がお呼び掛けになり、まあ金子大明神とか金光大権現とか、金光大神とか、生神金光大神と言う風にその、おんなじ川手文治郎様に変わりはないのだけれどもです。もう、川手さんでもなからなければ、下葉の氏子でもない、金光大権現でもない、もう歴然とした生神金光大神として、氏子からも神からも、それを唱えられなさる。崇めなられなさる所のものになっておいでられたのも、そういう様な一つの、本当なものでないかも知れません教祖も、それを、本当なものにしておいでられる精進がです、ああ言う風にお変わりになったんじゃなかろうかと、こう思うのですね。
 初めはまあ、大坪さんそれがまあ大坪先生、でまあ先生、先生て皆さんがまあ、先生でもないのに、先生、先生と言うて下さる様になり、まあここで色々修行したり、いい御弟子さん方が出来る様になるともう、親先生と(笑)言うて呼んで下さる様にですね、その矢張り私しは、その、一つのものがです、私しのふうたらぬくさと言うものの、その格と言うものがです出来ていきよる。
 ふうたらぬくい大坪総一郎というものには、ひとつも変りはないけど、それが魔かれていきよる、本当なものに成って行きよる。だからそう言う様な、本当な、そしてまあ、現在私しが思っておる事は、自分のこげなこつじゃ、儲け出しゃきらんと思よった。こげなこつじゃ成功は出けんと思よった。その、その事が私しの、幸せの基礎であり、土台であると言う事になって参り間す時に、それ頂いておる、その生格そのものをです、本当なものにして行かなければならんと言う事を感じますですね。
   どうぞ。